WAKO Alumni Association

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同窓会事務局

 

会長あいさつ

 

 

私と和光とのふれあい、

そして評議員としての30年をふりかえって

このたびは、永年勤続30年ということで、この創立記念パーティーの席上にて、スピーチをお願いしたいという電話をいただいたのですが、これにはたいへんびっくりいたしました。

といいますのも、もう30年も経ってしまったのか、まだ30年しか経ってなかったのかといささか私自身も驚いているというのが今の気持ちです。

それならば、これを機会に、これまでの私自身と、和光学園のことを、今まで過ごしてきた年月を、いい機会なのでしっかりと振り返ってみることにいたしました。

私が評議員に就任した30年前というのは、卒業生から評議員をどのように選ぶのかという選出ルールもはっきりとしておりませんでした。

春田先生から「おい、西尾君、君がやってくれ」となかば一方的に言われて、それに「はい」と答えたような状態でありました。当時は評議員会の議長の選出も慣例によって行われていたような感じだったのです。そしt私が評議員となったその後に、法人事務室という組織が出来たように記憶しております。ここで最初に、私自身と和光学園とのご縁を、そのいきさつを、まずお話ししたほうがよいかと思います。

私が最初に和光学園とのご縁が出来たのは、昭和29(1954)年、和光中学高へ入学したことからでした。

その2年前の1952年には、日本があめりかの占領下から独立しています。

日本の経済力も徐々に復興しつつあり、昭和30年代の「もはや戦後ではない」といわれる経済成長へとむかいつつあった時代です。

世界を眺めると、ビキニ環礁でアメリカが世界で初めて水素爆弾の実験を行った時です。

また、ベトナムのディエン・ビエン・フーでは、フランス軍がベトナム軍に降伏したという年であり、日本では青函連絡船の洞爺丸が台風によって沈没し、多くの犠牲者が出るなど、内外ともにあわただしい時代でした。

私が和光に進学するきっかけは2つありました。私の叔父が当時埼玉大学で物理学の教授をしており、まだ埼玉大学の図書館長をしていました。そんな関係で(埼玉大学におられた)海後先生と昵懇の間柄だったので、海後先生から強く和光学園を勧められたそうです。

また私の母が当時フランス語を教えていた方で、東京文理大科大学(現筑波大学)で心理学を学ばれていた寺内礼二郎先生がいらっしゃいました。

この寺内先生はのちに中央大学文学部で心理学の教授をなさっていました。

後に和光大学が新しく出来たときに、初代学長の梅根が招いた方です。

寺内先生は先ごろ亡くなられた石原静子前理事長と東京文理科大学で同期とのことです。そんなこともあって、お二人の方から、和光中学校への進学を強く勧められました。

私が中学高校とあわせて6年間和光で学んだ中で、ひとつ印象的なことがありました。

それは中学時代に体験したユネスコの実験授業というものです。

このユネスコの実験授業は、わずか3~4年でなくなってしまったと記憶していますが、その1~2年目の実験授業が私たちのクラスで行われたのです。

中学生の年齢でありながら、国際理解を深めるとか、異文化間の交流を図るという、あの時代では本当に画期的なことを目指していた授業だったように思います。

最初の年はインドネシアについて、二年目は永世中立国スイスについて学びました。

その後和光高校を卒業して、中央大学のフランス文学専攻に進みました。

それから、現代演劇協会の研究所などを経て、舞台TV制作を行う会社を設立し、現在に至っております。

和光を卒業してから、再び和光との結びつきが出来たのが、1975年ごろと記憶しています。

昭和58年の創立50周年の催し物のときでした。

会場が日本青年館でたしか合唱劇を上演したと思います。

劇の原案は丸木政臣先生で、それを高校の演劇担当だった矢島先生が、構成、演出、朗読を担当されました。

丸木先生が作詞されて、私と同じく「和光のOBである、作曲家三枝成彰氏に作曲してもらいました。

それが今でも中学でよく歌われている「夢を抱いて」「信じあって」「おさない日の夢」という曲なのです。

その合唱劇を上演するお手伝いをさせていただきました。

このような一連のことが春田先生や丸木先生からの「おい西尾、君やってくれ」となかば一方的に言われてしまう、というところにつながっていくのだと思っています。

卒業生選出の評議員の仕事といっても、まだ同窓会の活動もなく、同窓会名簿もない状態からのスタートでしたから、とにかく目の前にあることをやっていく、これはやったほうがいいかな、と思うことをひとつひとつやっていくという作業をずーとつづけてきたように思います。

同窓会の最も大切な基礎資料となる、卒業生名簿は1989年に第一回目を出しました。

続いて1995年には幼稚園、小学校、中学校、高校の同窓会の一体化を図って、第二回目の卒業生名簿を出しております。

和光学園のOB、OGの会誌の「はなみずき」も一年に2回であっても、卒業生と学園をつなげるかなめのひとつとして、今回で第43号を数えるまでになりました。

さてこの1~2年前からの懸案事項ですが、和光学園の同窓会事務局を作るということがあります。

これは真光寺の校舎内に事務のスペースを作るには、スペース的に手狭であること、またコンプライアンスなどの問題もありますので、善処すべく進めて参りました。

森下常務理事、行田学園代表、両角中学高校超など、皆様のご意見を伺いながら、具体的に構想をまとめて建設準備を進めて参りました。

土地は学園から校地を提供していただきながら、不足分は卒業生の皆さん方からの寄付を募ってまいりたいと思います。

同窓会事務局を建てる場所は、鶴川中学高校の門の脇ということで計画中です、建物の形は、ログハウス・スタイルで建設する予定です。すでに法人・理事会からご了承をいただき、2012年には、建設着工の運びとなりました。

この建物の中に同窓会事務局が入り、卒業生のためのスペースとしてご活用いただけるように、運営面でも考えております。

また親和会の方々、教員の集まり等にも使用していただくなど、効率的、効果的な利用方法について、これからも検討していきたいっと思っています。

また1994年より、理事のお仕事までもおおせつかって、和光学園の経営の一端を垣間見させていただいております。

そこでの学園経営の難しさ、いろいろと解決しなければならない問題の多さは、まったく驚くばかりです。

でも、幼いころからお世話になった和光学園のために働かせていただいていることを思うと、やんちゃ坊主のおそくなってしまった恩返しのようにも思えて、まさに感無量の思いであります。

今後も私でできる事があれば、精一杯和光学園のために働かせていただくつもりです。

なんだかとりとめのないお話になってしまいましたが、和光学園の評議員として30年を迎えるにあたって、私からのご挨拶とさせて頂きます。

和光学園創立78周年記念日の講演より

 

西尾榮男  中高校8

 

 

 

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西尾榮男

副会長

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須藤

須藤

 

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